受験を志す

結局少なくとも自分の意思決定の範囲を広げるためには、社会から需要されることに関しての何らかのプロにならなくてはいけない、と僕は考える。たとえば大学院のときに同じ寮にいたTさんは「会社がつまらん」といって大学院に戻ってきて、マスター取得後ロンドン大学に行ってしまった。昨年寮に遊びに行くとロンドン大学でもマスターをとって、今中国で働きたいので、中国に事務所のある監査法人にエントリーして就職が決まったという。そう、Tさんは公認会計士の資格を持っていて、ある程度好きな生き方を選べる担保があるのである(本人は否定していたけれども)。
同年代の友人達の中には社会的に評価の定まっている会社に勤めているにも関わらず、会社に頼らない生き方を模索している人が何人かいる。僕は就職氷河期が終わりかけ、景気が良くなってきた2006年ごろに就職したが、「結局最後は自分に能力がないとダメなのだ」ということを身にしみて解らせられた。日本経済の成長が前提の1990年までとは状況が変わりすぎている。毎年給与と賞与は上がる、という神話も崩壊した。「技術で勝る日本が営業で勝てないのは、日本以外で通用しない戦略をとっているからだ」という論調が最近大きくなってきているが、(ex:iphone、black berryなどのスマートフォンに対する日本のケータイたち。)1つの会社で定年まで勤めて社内でしか通用しないスキルを粛々と磨いていく、という状況は非常に日本的で、現在ではあまりにも危険すぎる生き方のように映る。このように「個人としてパワーアップしなくてはいけない」と、35歳 以下の人たちが危機感を募らせているという背景が、個人パワーアップのノウハウを提供する勝間和代さんの書籍が売れている理由なのかなとも思う。(というか、メインストリームから外れた人たちは絶望感に溢れているし、危機感と絶望感がドミナントな僕達の世代ってなんぞ。って社会企業家が増えてたり、志と希望を持っている人もいるけどね。)ここで「個人パワーアップ」というアブストラクトな内容については別の機会に論じる。商社・金融・法律などの業種なら、仕事と平行して社外でも通用するスキルを勉強することも可能なのかもしれないが僕がいた会社はほぼ国有企業のようなところで、改革や社会情勢とはあまり関係がない世界だった(結局はお前が仕事できないんだYO!という話は置いておいて)。ともかく、一週間ぼへーとして金曜日の午前中に帰っていく上司が1.2k万円/年ほど給与をもらっているのを見て、「早くああいう立場になりたい!」とは微塵も思わず、むしろ「これでいいのか!?」という思いが募るばかりだった。
で、もともと建築が好きで日本の都市の文化破壊の惨状に辟易していた僕は「どうせ人生過ごすなら、世の中を自分が思う「良い」方向に変えるために歌って踊って過ごしたほうがいいや」と適当に考えて、資本主義のルールの仕方を学ぼうと思って経営学の勉強をしようと思い立ったのです。